北欧に見る違って当たり前な社会

お久しぶりです。激動の2020年もあっという間に終わりそうです。

2016年にデンマークで1年間過ごしてから4年間、2、3ヶ月に1度は北欧に行っていたので、こんなに長い間飛行機に乗らずに日本にいたのは久しぶりでした。

どんなこともそうだと思いますが、浅く広い関係というのは楽で、いろんな場所を短く転々としていると、その場所のいいところがよく見えます。一方で1つのところにずっといると、その嫌なところがよく見えて、そしていつの間にかそこの当たり前が自分に染みこんでくるような気がしてあまり好きではありません。

久しぶりにずっと日本にいたからこそ、改めて感じた、デンマークのやっぱ良いなーと思うところ、そして恋しいところは、寛容な空気です。

これまでにも書いていますが、デンマークの学校では対話を教えられます。それは上手に話すためではなくて、いろんな人種がいて、いろんな宗教がある。同じ人種で同じ宗教であっても、対話をすればいろんな意見があるということを身をもって知ることであると思います。

こんな状況になると特に思うのは、「違って当たり前」というのが、日本では思った以上に馴染みのないものなのだということです。だからこそ、こういう時もそれなりによく機能するというのは何度も書いてるので省きますが、日本では、どちらかというと「違うことは悪いこと」だと教えられてきたように思います。

「違って当たり前」というのが通用しない世界では、「あいつは間違っていて、自分が正しい」そんな深い溝ができてしまいます。この溝は一度できると、なかなか埋まりません。そしてそこにいろんな腐敗物が埋まっていきます。

「違って当たり前」だという感覚は、あらゆる争いの防波堤になります。「自分が大切だと思うことと、誰かが大切だと思うことが違うかもしれない」という前提に立つこと。そして相手の意見を聞いて、自分の意見を伝えるのがベストですが、それができなければ、少し想像してみるだけでもいいと思います。

私の地域では、新型コロナに初めて感染した人の家が石を投げられて引っ越してしまったという噂があります。これも噂なので真相はどうかわかりませんが、おそらくその家に石を投げた人は、テレビやネットで伝えられるたった数十文字を見て、「こいつは悪だ!」「こいつはなんて非常識だ」と判定したのだと思います。そのニュースを聞いたときに、その人にもしかしたらやむおえない事情があったのだろうか、その人の人生にとってどうしても大切なことが絡んでいたのだろうかと想像した人は何人いたでしょうか。もしそうでなければ、「何も石を投げたりしなくても」と思う大勢の私たちだって、結局石を投げた人とあまり変わらないのだと思います。そしてもちろん、その石を投げた人にも、そうせざるを得なかった背景があるのかもしれません。

私たちは、ルールや常識、世論に埋もれたたくさんのストーリーがあるということをついつい忘れてしまいます。大切なのは、そのジャッジの前に一息置く余裕と想像力だと思います。

「トランプがいい」という人もいれば「バイデンがいい」という人もいて、「コロナウイルスが危険だ」という人もいれば「コロナウイルスなんてない」という人もいます。人が信じているものも生き方も様々、どんな意見だってあって良い。全員一致する方が不自然です。

いつもどんな時も、

自分とは違う意見に耳を傾けることができたか。

それを持って、魂を込めて自分なりの考えを導きだすことができたか。

そんなことを突きつけられた1年でした。

来年は、どんな年になるでしょうか?

周りの状況がどうであれ、自分や他者に対する寛容性のある社会は、一部の人だけでなく大勢の人にとって寛容で優しい社会を作る一歩ではないかと思います。

きたる新しい世界が、そんな社会でありますように。

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